昭和40年02月01日  月例祭



  短い時間にお話させて頂くのでございますから、どこをどう話してよいやら分からない。私は最近、この前の月次祭の御説教を、初めて翌日聞かせて頂きました。内容は素晴らしい。もう盛り沢山に、いっぱい、けれどもどうでしょうか、私がテ-プの中で申しておりますように、私が申しておることが、聞きにくいとするなら、皆さん、こりゃ大変難気なことだと思うですね。
 もうここで私がまあ、ある程度のゼスチャ-があったりこうねえ、その様々な動作を見て下さるんですから、皆さん幾らか分からんけども、月次祭の時のあの御説教はテ-プを聞いたら、全然その話してる私自身がですね、まあどうして早口じゃろうかと思うです。けどたったその30分間あまりに、これも分かってもらおうこれも一つ知って頂きたいとそういう一生懸命の思いだし、あの中に一杯盛られておるという事です。
 私は思いました。こりゃぁ、せっかく若先生に、あんな盛り沢山、少しばかり、ゆっくりゆっくり、一つ、私の味をあじおうて頂いて、これだ、何か一つでも、皆さんの心に留まるものがあるなら、それを繰り返し、自分の心に頂いて、言うならそれを一つのキャッチフレ-ズとして、皆さんと心の中は、を、私のはな、何か、キャッチしたものがあるならば、ね。
 それを、一つ、お祭りのお直会、いうなら、このお月次祭なら、お月次祭は、私がおかげを受けておることを、見て頂くようなものです。そして、いわば私がおかげを受けて来たことを、皆さんが聞いて頂く、見て頂いたり、聞いて頂いたり、それが、私は、お月次祭のヒレイによくするということは、そういうことではなかろうかと思うんですね。皆さんが、まあ言うなら、一週間に一辺、あまりの思いを膾炙(かいしゃ)の思いを、この御祭りに、捧げられるということなんですけれども。
 もう本当なことを言うたら、私の、いわば、おかげを受けておる姿を、この御祭りに、皆さんが見て下さる。ね、そして私が、おかげを受けてきておる、お話を、皆さんが聞いて下さるということ。今日も先ほど、ここで先生方が神饌をさして頂いておるんです。今日の神饌の、この御三宝が一台、何千円とするち、一番前に、果物の横にあんまり無駄がない一台がありますでしょう、果物のすぐ横に、ありゃぁどんなに安く見積っても、6,000円ぐらいは、盛り込んであるだろう。
 一番無駄がないんですけどね、見掛にはよらん。それとてもやはり私が、おかげを受けておる姿を、ありゃ神様がいかにも・・けれども、やはり誰に下げようと思うて下さったかと思うと、結局は私に下げて下されようとされておるのです。ですから私のおかげを受けておる事をです、皆さんが見て頂き、そして私がこうしておかげを受けて来ておる、という事を話にして、皆さんに聞いて頂くので御座いますから、
 私のは皆さんに、分かってもらいたいという事を、30分の時間に一生懸命に、その詰め込んで、お話をするという事は、ちっと無理ではなかろうかと思うですよね。御教えの中に「信心が10年と続いたら我と我が心を祭れ」と仰る。「信心が10年と続いたら、我と我心を祭れ」と、はあ私は10年続いたから私の心を祭ろうかというて祭ったけれども、さあ拝めない様な心では、そりゃ祀ったが祀ったになりません。 
 私であるなら家内が、私を拝んでくれるような、子供が、私を尊敬してくれるような内容になっておらなければ、わがばっかり祭っても仕方がない。そうでしょうが、ね、「10年と信心が続いたら、われと我が心を祭れ」と、祭らなければおられん。われと我が心が拝まなければおられないと、このまま信心が成長していったならば、どんな有難いことになってくるであろうかと云うような、心が自分の心の中に10年たったら、その基礎が出来なければならないと、私はこう思うんですね。
 今日も、遠方から御参りされた親子の方が、もと、この近くに居られましたから、繁々と御参りがありました。もう実に、本当に、美しい方です。もう心が美しい方です。それで、信心が一生懸命なのですから、いよいよ鬼に金棒。ところがです、その御主人のお母さんという人とは、どうしてもこころが合わない、もう、顔を見ただけでくうっととする。ね、こんな難儀なことはないですね。
 世の中にあの人の顔を見たらくうっと。とするという人がおるという事は。それでも信心をさせて頂く様にならせて頂いたら、是ではいけんそれではいけないという思いに、一生懸命精進された。お母さんは○○教の信心をなさっておられたんだけれども、その方をですまあ強引に御導きして見えられた。私こんな方を滅多に見ませんですね。
 どんなに御理解を、私が、伝えましても、御理解を伝えましても、嫁さんは、有難い有難いと言うて、有難涙を流して聞いておるけれども、お母さんの方は、首をこんなぐあいにうつむいたまま分かったやら、分からんやら、何か、他のことを考えてござるじゃろうかと、いうような、御参りが、やっぱりずいぶん続きました。それでも、やはり御導きして見えられました。
 そして自分は、家では、もう一生懸命、そのお母さんを、拝ませて頂けれる稽古をなさったけれども、どうも、拝むという気になれない。ところが、先生、そういうような、もう嫌いで嫌いで、この世の中で、この人ぐらい嫌いじゃないかという人と、一緒に生活をさせて頂いたんですけれども、それが、段々おかげを頂かせて頂くようになりまして、最近ではもう、そのお母さんがもう可愛らしゅうて、可愛らしゅうて、ねえ。
 もうとにかく、どうとか喜ばれるように、してあげなければ、おられないと、いうような心が生まれ、お母さんも、もう、私を、もう、とにかく「今日は椛目に御参りしますよ。」と、いうと、後ろのほうについてきてからああやってからちゃんと、今までもの言うとが、嫌いじゃったお母さんがです。もうそれこそ後ろ姿を、あのこの世、あのその方お母さんが手紙を渡しておられますね。
 夜でも出て見えられますと、淋しゅうてたまらん。もうだからもう後、嫁の後ろ姿を拝ませて頂いておるっていうて手紙がまいっております。私その方のことを、本当に色々詳しく、10年間の様々なことを、御取り次ぎさせて頂いたんですけれどもです、そこに、愈一生懸命にうち込まれた。次々とお母さんの体の上に、ひどい病気をなさったりいたしましてね、もうそういうたんびんに、もうそれこそ一生懸命、命がけの介抱をされる。不思議なものですね。一生懸命が相手にかよう相手が喜ぶ。
 もうこの頃ではあんなにそのだんまりのお母さんが、もうはしゃぎ回っておられるんです。その様子を見て私も拝まずにはおられない。本当にこのことを10年前のことを思うと主人もどのくらい辛かったことであろう。私とお母さんの中に立って、なにか辛かったであろけれども現在では反対にです、まるっきり養子さんのその嫁さんの方が、そのそこの家つきの娘さんの様に仲良うなってです。おかげを受けておられます。
 今日は先生、「それが、10年になります」とゆうて、御礼の御届がありました。私は、それを聞かせて頂きよってからですね、本当、信心ちゃ有難いなぁ、そういう貴方の樣な、信心が育ってゆかれるということがです。また、貴方の様な信心を育ててゆくということをです。私は、これからは楽しみに、この生涯御取り次ぎの御用さして頂こうと、話したことでした。
 この方の場合なんか私、10年続いておられるし、しかも、そういうふうに心が育ってきておられるし、しかも自分だけじゃない、お母さんまでもが、そういうおかげを、受けて来られたのですから、これは、私、祭りに価するものと思うですね。お母さんから拝まれてござる。主人から拝まれてござる。自分も、主人を拝んでござる。自分も、お母さんを拝んでござる。
 もう、そのお母さんが、もう、嫌いで、嫌いでたまらなかった。もうこの世の中で、大体、ああ言うタイプが一番好かんというタイプ。片一方に言わせりゃぁ、けれども、それが、可愛らしゅうて、可愛らしゅうてたまらんごとなられたと、こういうこと。やはり精進しなければいけませんですね。私が、一番初めの椛目に私、忘れとりました。したら、今日、そんな御届けをされるんです。
 私が、一番初めに椛目に御参りさせて頂いたら、先生が、今迄の事を、お届けさせて頂いたら、『この小指に、真っ赤な、つまぐりの、そめておる。』御心眼を頂きましたよと、ゆうて、頂いたんですけれども2・3日前からの御理解を頂きよりますと、確かに、私は、そうだったろう、と、こういうことだった。先日から、こんな朝の御祈念にお知らせを頂き、ねえ、
 『この4本の指』ですね、お互いの信心の度合いというか、信心の焦点というか、又自分の信心を、分類するならばどういうふうになるだろうか、人差指いわば、人力の限りを尽くして努力をするというタイプ。ねえ。これは中、中中、これは自分の心ね、御参りはそうしないけれども、なかなか言うておることも、しておることも、信心にかなっておる。教えを行じておられる。いうなら正直のこうべに神宿る。
 私どんそう一生懸命拝まんでも、参らんでも、本当おかげだけは、頂いてゆかれるというタイプ。ね、中心を大事にする。信心を大事にする。すると、これはです、これは椛目でも、もう信心を10年も15年も信心を続けておられる方です。ね。それこそ、薬一服頂いたことは無い。ね、神様のおかげでです。もう、どうか、ありゃぁ御神水、御神米御神酒さんでおかげ頂いておる。
 そりゃやっぱり頭の痛いこともありゃ、胃が痛むこともあるけれども本当に薬一服頂いた事は無いというような神様一心のおすがりからです、この薬を必要としないような信心。ね、そしてなる程おかげを受ておられる。という信心又それから反対にです、信心のあれだけ手厚う出来てるのにです。もうどうかありゃぁやっぱりどうか、あるときゃやっぱり医者だ薬だ、これを中心にこれを持ってゆくそれだけの信心。
 ね、一つ信心は、ね、椛目通いが楽しい。それこそ、一日会わねば、千日の恋。まるっきり、恋人のよう。ね、椛目通いが楽しみでこたえん、御教えを頂くのが、有難とうしてたまらんと、いう信心。ね、その方のこの信心にどうも当てはまるような、なる程、そういう信心をなさってこられた。という感じなんですよね。
 そういう例えば、このなら全部の、例えば信心がです。いかにも別々にすると大変難しいようだけれども、これは難しいことではない。実を言うたら全部が身につかなければ、自分のものにならなければいけない。小指と例えば親神様親指であったら、これだけしか持てない。ね。薬指ならこれだけ高高指ならこれだけ、人差指ならこれだけこれだけ握るね、おかげを握った。御徳をつかむと言う様な信心ではない。
 それにはこういう信心をしておかなければ、いけないって言う様な又それに色々御理解がついてます。そんな御理解その方の場合はです。とにかく椛目通いが楽しいという信心だったと私は思うですね。「10年と信心が続いたら我と我心を祭らせて頂けれる」ような心が育ってゆくという事を楽しみに、信心をさせてもらう。それにはどう云うお互いが、信心をさせて頂いたらよいか、まそこに焦点をおかせて貰う。
 今朝からの御理解に、今年は、おかげ頂きまして、あそこへスト-ブが御広前に据わった。ですから、ここに座っておりましても、本当に、冷えきるようなことも、なからなければ、足が冷たいと感じるようなことがないほどに、まあ、あのスト-ブ一つでここの御広前が、まあ、暖かいというほどしじゃないけれども、いわば、寒いということがない、冷たいということもない。
 お互いが、一つ、暖炉のような信心がです。暖炉のような物がです、自分の心の中に燃えておらなければならない。暖かい心というものが、なからなければならない。そこでは一切の者が育つ、一切の物がそこに集まって来る。私共の欲する色々なおかげが、ここへ、この暖炉のそばに集まって来るだろう。それには、私共が親切にならなければいけないと、いうような御理解だった。
 だから皆さん、こうやって【  】はあ、その親切なら、私共、皆んな親切ちゅうような顔をしとられましたから、私、又、改めて、神様に、お願いをさせて頂いた。けれども、それは、こういう親切でなからなければいけないということなんです。皆さん、どういう心を持って、暖かい心ってゆうことであると思われますか、ね、これはどんなに生まれつき、暖かい人でも、冷たい人でも信心の教えを頂かせて頂いたら、そして、自分の身におかげを受けたら、神心となりてそれを人へ、伝えていく。ね、
 人が助かっていくこということさえ出来れば、と言う心だというでございます。暖かいよいう心は。もう人が助かりさえすればのは良いという心だということ。成程、親切の、ま、もう一つ親切と親切の中にあるところの人が助かりさえすれば、良いという、そう云う心を持つて、暖かい心、商売人でゆうなら、もうお客さんが喜んでさえもらえればよかという信心、もうここ一点に絞らせて頂いてでも、おかげ頂くですね。
 私あの先程もキャッチフレーズということを申しましたが、例えば、お互いの信心によってそこのところの、はあ、これだというもの、一言を覚えさせてもらう。例えば、私の修行中の時分、沢山の借金を持って、それこそ、催金さいなまれる、こりゃもう、えげつない催足をうける、本当に「四百四病の病より、貧より、辛いものはない」と云うくらいに、やはり、辛い。けれども私はですね、そういう辛い中にでもです、もう本当に、血の涙が流れる程に辛いことでもです。
 神様の前に出らして頂きよりますとですね、四神様の教えておって下さる。御教えが私の心の中に、ふと、甦ってくるのです。それが、尊い、有難いという心に、なってきておったと云うことなんです。四神様は、こう教えておられます。ね、『氏子の苦しみは、神の苦しみぞ』とおっしゃる。私は、血の涙の流れる程に、苦しゅうございますけれども。私を守っておって下さる。
 私の事を思うて下さる。親神様は、私以上の、いわば、血の涙を流して、私の事を心配しておって下さるんだ。なげいておって下さるんだと思うたら神様相済みません、ということに、いつもしぼらせて頂いたら、その難儀なことが有難い尊いものになっておったということ。だんだんおかげを頂いて、その借金、その借金払いも、段々、片づいてくるようになりました。
 その時の私の心に、教祖の四神様の御教えが、それを、キャッチしておる。ですから、もう、苦しい時には、私以上に、神様は苦しんでござる。と、思うたら、相済みませんより他になかった。そこから、尊いものが、有難いものが、なんとはなしに出てきた。その苦しさも、苦しいのだけれども、有難い。苦しいけれども尊いと、いう信心が、身に段々ついてきた。そう云う辛さが、段々無くなった。
 それから、私の信心は、どう云うふうになつてきたかと云うとですね、私の心を掴んで、その当時、もう、いつも離さなかった物は「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」と仰せられます。あの時分、皆さん、この御理解を、ずいぶん頂かれましたね。口を開くと、私それを申しておりました。「氏子が神様任せなら、神様が氏子任せになる」とおおせられますから。
 なるほど、私が神様任せにならせて頂いておりましたら、神様の方が、私任せになって下さっておるのであろうかと、云うような御ヒレイが、椛目の御広前に見え出しました。ね。ま、そん時の信心で、様々な時がございましたですね。合言葉の様に、「限りなく美しゅうなろうや。」「限りなく美しゅうなりましょうや。」とお互いがあの、申した時代がございました。「椛目の信心などげな信心ですか。」と、ある時、バスの中で、高嶋さんに聞かれた方がある。
 さあ、どげな信心って、まあ、とにかく「限りなく美しゅうなろうや。と、これが椛目の合言葉だと言われました」と、言うたら「はあ、そりゃぁよか信心」と、ある方が感心されました。皆んなもそう言うておりました。もう、限りなく美しゅうなろうやと、その中には、改まりが入っとる。本気で磨かせて頂こうと云うことが、限りなく美しゅうなろうやの中にはあった。
 どのような問題、どのような事柄でもです。私の心が汚いから、その問題が問題になるのであると云うこと。腹が立つ時に、私は汚いから情け無い思いをする時も、私が汚いから、私が限りなく美しゅうならせて頂いたら、そう云う腹の立つ問題も情け無い思いも、みんな無くなってしまう程に、素晴らしい言葉であったと云うこと。これは私の心を、そう云う教えがキャッチしておった。
 私の心ひとつにその御教えがキャッチしておる。まあ、最近、私の心の中に感ずるもの、それ一切が神愛って云うことである。これが私の実感、どう云う中にあっても先生難儀な事が起こりました。けれども、それは神愛だと。神愛を分からせて頂くところ迄、修行させてもらい、さあ例えそれが神愛でありましてもです。その神愛を、神愛とさせて頂くところのおかげを頂かなかったら、それは神愛ではなくて、やはり難儀になるでしょう。そこに信心の油断も隙も出来ないと云うことになってくる。
 私が申しますのには、只今、私が申しております、今までの過去の信心には、ね。少しは油断しても良かろうと云うものがあった。ね、神様任せになったとか、限りなく美しゅうなっていったとか、本当に、こんなに苦しゅうても、神様は私以上に苦しんでおられるのだと云うようなことで、私の心は、いよいよ尊い、有難い物が心の中に育っていった。ところが、もうそれ一切がです、神愛だと。
 神愛です、神愛、もう神愛にしなければ、な、神愛なのだから、神愛しなければならない。信心と云うのが、油断も隙もなくさせて頂かなければならないと云うような、現在おかげを頂いております。ね、29日は、敬親会でございました。熱心ですね。皆さんもう時間励行でさっと皆さんは、もうとにかく29日を楽しみに御参りになる。もうとにかく、あの御年寄りの方達が、話しておられる中に、割り込んで行かれんぐらいに、有難い話があっておる。
 もうとにかく、もうこの丁度、雨が降っとりましたもんですから、日の暮れるまでをでした。一生懸命、信心話、その中の最後に一時間ばかり、私がかててもらうんですね。その中にです。こう云うような発表、発表って御話をしておられるお婆さんがあります。久留米の光橋先生ところの、御信者さんで、山口さんと云うお婆さんでもう80になられます。お婆さん良い信心をなさる。
 この方は娘さんが義理の娘さんだから、もちろんお孫さん達は、血の縁のないお孫さん達だけれども。その孫さん達が皆んな、お婆さんの御取次で、お婆さんの信心によって、おかげを頂いておる。もうそれも、本当に、奇跡的なおかげを頂いておる。又はなんとはなしに、おかげを段々頂いておる。ですから、もう、お婆ちゃん、あんたのおかげで、と云うて月給でもなんでもお婆ちゃんに持ってこられる。と云う程に、まあ大事にされておられるわけなんですね。
 そのお婆ちゃんがです、この頃、御夢の中で、御夢を頂いておられるのがです『信心がなからねば、くそ婆ぞ』と頂かれた。お互いが、くそ爺やら、くそ婆になっちゃぁいかんですよ。ね。そりゃぁ、何のそげん目の前では言わんですもんね。そりゃぁもう、隠居でんじゃ、ちゃんとそりゃぁ持っとかんにゃ財産を幾らか持っとかなければ、若い者がろくそうにする。それでは、やっぱりいけません。勿論、持っとってもいいですよ。ね、持っとっても良いけれども、内容が素晴らしゅうなからにゃいけん。
 そりゃ若いもんがそれを目当てに大事にするようなことではつまらん。そりけんちゅうてから若いもんにむごういうちから、利口に言う年寄りがある。まあ、出来るだけ、若いもんから、可愛がってもらわにゃから。ね、そして口でんごよういいよる。ところが、さあ、口が利けんごとなったらどうするか。はあ、若い者、出来るだけ手伝ってやらにゃならん。手が利かん、利けんごとなったらどうするか。
 物が言えんごとなったらどうするかやらにゃ常ばごと、もしなったらどうするか本当にこのくそ婆、早よ死んだ方がよかと口では言わんでも、心で思われたりする様な年寄りになっちゃぁ出来んと云う事ですよね。本当にそれこそね嫁が拝れ息子が拝まれね、しなければ自分が拝まれる様にはなりません。家の婆ちゃんばかしは本当にそれこそ仏様の様な人じゃとね、とにかくあの暖かい心のそばにもう家の中に居って貰うだけでも、家の中がなんとはなしに、暖かくなって来ると様なおかげを頂かなきゃいけません。
 本当に神様がその表現が面白いですね。面白いって神様の知恵やらには、恐れ入ってしまう。信心がなからにゃくそ婆ぞと。そりゃそうでしょうね。血の縁のない娘やら孫やらがもう80になったら、もう婆が早よ死にゃぁええと思うちょるとこに例えば、いやその雰囲気の中に居ったんじゃ、お婆さんもいわばいばらのごとある中に住まわなければならない。ね、人見せに大事にするのじゃない、心の底から大事にする。
 子供達や孫達の中にとり囲まれて、有難い一生を終わらせて頂くような、おかげを頂くためにですね、若い時からしっかりそこの所を焦点をおいての、信心がなされてゆかねばいけない。お徳を受けていかにゃいけん。家のお婆ちゃんのいわっしゃる通り、昨夜秋永先生のお婆ちゃんが、昨日御届敬親会に来られた。で母もどうでもこうでもあちらの秋永先生の奥さんが、椛目のお婆ちゃんを一度連れていらっしゃいと。どうでもこうでも、連れてゆくと云われるで、昨日高橋さんの車に便乗してから参りました。
 夕べ妹が父に申しております。「婆ちゃんがおんなれんけに淋しかろっち」じっちゃん「あんなぎゅらしかつがおらんけん結構」ち。「はあ、じっちゃんあげん言うちからはかやろ」ちゆうてから、妹がひやかしておりましたが、本当に私が見ておりましても、あのぎゅうらしか婆さんが居らんなら淋しかろごたる、いいやお爺さんだけじゃない孫達、私達なんとはなしに淋しい。やっぱおってもらわんにゃいけんのです。
 行き掛けの、朝の行き掛けにです。今朝方御夢を頂いた『本の中に沢山の鯉がおった。その鯉を先生が5匹ばっかり、その鯉を福岡へ御土産に持ってゆけ』と云う所を頂いた。ほうこのお婆ちゃんは福岡へ行かっしゃるのに徳の御土産を持ってゆかっしゃるんじゃなと、私は思うた。ね。本当にま大事にされてまだ私は御土産の話は、まだ聞いてないんですけれどもです、大体それんきには違い無いのですけれども。
 若い時から、お婆ちゃんの信心を、見たり聞いたりしてきて居りますから、そう思いますですね。家のお婆ちゃんは、いや、くそ婆に育って居られなくて、いや、おかげ頂いておられるなと、云うことなんです。信心がなからねば、くそ婆ぞ、信心のあったおかげで、味噌婆になったと、信心があったおかげで味噌婆になった。ね、いわば、家の中には、無しにはでけないという年寄りなんです。味噌は一日だって半日だって、欠かすことはでけんでしょう。
 お婆ちゃんに居ってもらうから、この味噌婆さんが、居ってもらうおかげで娘達が、孫達が助かっておるのでしょう。そういう、味噌婆さん、味噌爺さん、そういう内容にならせて頂く為にです、私共が信心をさせて頂いたら、1年1年、有難うなっていくとおっしゃる。有難とうなっていくと云う、焦点をおいての、修行させてもらい、ね、これこそ、私が頂かねばならない御理解だ、御教えだったと云う物を、本当、自分の心に、キャッチしたらです、ね。
 それをキャチフレ-ズとしてです、私共が、それに、本気で焦点をおいてのそれぞれがです。同んなじ事は要りません。家内も主人も、焦点は違ってもよい信心の段階なのですからね。そういうような私はです、おかげを頂いて10年経ったら、本当に、我と我が心が拝まれる様な。所謂、我が心を祭れとおっしゃる本当に祭れるようなと、云うことは、人からも自分の周囲からもです、家内で云えば、主人からも、ね、
 年寄りからも拝まれるような嫁さんにならせて頂いて、初めて、10年したら自分の心が拝まれる様になると云うことではなかろうか。ね、先程の、これ、これのおかげを頂きましてもです。ね、それでは、本、本当そう云う、本当な物になりません。それによって、おかげは頂きます。いやこれは一つも出来なくても御取次の徳によってです。自分の、その、一生懸命でもなか、改まっても居らん。ね。
 あんたどうかあるがくそ婆ごでそげん、椛目が慕わしゅうて慕わしゅうて、そげんこといっちょん思うたこともなか。ね人間的なそげんとはいっちょんしよらん。それでもおかげは頂いておるとゆうこと。ね、それをただおかげであってです。それは本当は影なのだから、消えてしまうような影なのだ。だから私共本当にこの5本の指全部でです。親神様も協力して下さって握れるところの物、そう云う御徳をです。
 頂かせて頂くと云うことを楽しみにそこに焦点をおいて、お互いが信心させて頂こうと願うならばです、取次させて頂く、私もそこにです焦点をおいて、又いや私そこにです。そう云う御信者さん方が1人でも2人でも、本当に育ってゆかれると云うことを楽しみに、それを生きがいに御取次させて頂く事が出来ると、こう思います。ね、一つおかげを頂きましてですね、くそ爺いやらくそ婆になっちゃぁ出来んです。
 本当に味噌爺さん味噌婆さんにならせてもろうて、家の中で居ってもらわなければ出来ない、いや家の中だけでは無い御広前に、あの御信者さんだけは、居ってもらわにゃ出来ないあの婆さんだけは、椛目のいやどうでも居ってもらわなければ、あの御信者さんだけは、居ってもらわなければ出来ない。教団の上にも社会の上にもです。あの人は欠かすことは出来ない。居ってもらわなければ出来んと云うようなですね、広い豊かな信心と徳を身に付けて、おかげを頂いて行かなければならんと思いますね。
 ここでは、皆さんがです。私が段々おかげを頂いて参りました、そのおかげを月次祭にはです、そのおかげを聞いて下さるのであり、そのおかげを云うなら、見て下さるのであり、見たり聞いたりだけではいかん。皆さんの上にもです。そういうおかげが本当に限りなく無尽蔵に頂けてゆかれるところの、もうちょっと、いう、その信心がです、どう云うような信心から、頂けるかと云う所に、焦点を、本当、置かなければいけません。焦点と云うてもです。先程も、申します様にです。
 あぁこれだ。こ、これ今日一日が、この御教えを持って、今日一日の、信心をさせてもらおうとね、私の信心の一つ、こう、段階と云う物をです、様々に申しましたがです。どんなに苦しい修行時代を通っておっても、私よりも苦しんで居られるのは、神様だと、思うただけで有難い尊い物になった様にです。そう云うところ迄、おかげを頂いて参りましたらですね、そういう信心が続けられてです、私は、初めて10年経ったら、我が心が祭れれる様になるのじゃないかと思うのでございます。
   おかげ頂きました。